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こころ BY夏目漱石

[0]うへー 06/01/16 18:48 QLYsq2.0oM
学校の課題で、「こころ」を買って全部読めみたいなものがありました。
が!!私には絶対読めないなと確信しました!!
そこで、どなたか「こころ」をすべて読んだという方、もしくは内容を知っているという方にいくつか質問させてください!!!

1.「私」が鎌倉の海岸で先生を知ったきっかけはなんですか?
2.「先生」の家族、奥さんとの間柄、生活の様子。
[1]ちっぷ 06/01/18 23:36 EU6XpM7rZi
学校の授業で今「こころ」をやっているのですが、「こころ」を全部読んでも自分の考えが言葉にできないのです↓(TOT)
 @先生の捉えた「人間観」について
 A人間の裏切りということについて、叔父、k、先生など様々な人の生き 方の中で、どんなものとして描かれているか?
がテーマなんですが、どなたかアドバイスください!
[2] 06/01/20 14:51 aEVHXVLvIC
つくづく「こころ」のスレが立つのは毎年のことですねえ。
だから、私はまた今回もご紹介しましょう。
多くて読むのは大変かもしれないけど。

ザ掲示板
・読書感想文・夏目漱石『こころ』
 http://literature.dot.thebbs.jp/1027521168.html
・読書感想文・夏目漱石『こころ』 2
 http://literature.dot.thebbs.jp/1073634446.html
・!HELP!夏目漱石の「こころ」!HELP!
 http://literature.ten.thebbs.jp/1098791505/
[3]桃郭とんび 06/02/10 23:56 rV4iZvMB0B
待て、あれは後期三部作だからこころだけ読んでも。。。
[4]masami 06/02/19 01:18 uVQVkYT.G3
できれば早くお願いします!
今度テストで『こころ』が出るんです!お願いします
1.「私は思い切って奥さんにお嬢さんを貰い受ける話しをしてみようかという決心をしたことがなんどとなくありました。けれどもそのたびに私は躊躇して、口へはとうとう出さずにしまったのです」のところで、このときの心理的背景、理由はなぜですか?
2.「私は手もなく魔の通る前に立ってその瞬間の影に一生を薄暗くされて気がつかずにいたのと同じことです」のところで、このときの魔は、どういう事態を表現しているんですか?
[5]こころ 06/03/08 23:44 hZTHsnDJQH
初めまして。前の方の質問に沿った内容ではなくて申し訳ないのですが、私も「こころ」について皆さんに質問をしたいことがあるので書き込ませていただきました。
Kの自殺を苦に自殺をしてしまった「私」が、「自殺をする」という方法以外で救われる手段はあると思いますか?
他人に対して「取り返しのつかない罪」を背負ってしまっては、もう「楽しい人生」を送ることなどできないのでしょうか?
唐突な質問で申し訳ありませんが、皆さんの意見を聞かせていただければ嬉しいです。
[6]ジーナ 06/03/28 07:56 *uPcoYmrjHTF*Jo5Ou8LmDE
>>5
>>「自殺をする」という方法以外で救われる手段
罪を償いながら生きていくというのが、一つの方法だと思います。ありきたりな意見だと思いますが。「取り返しのつかない罪」を過去に背負っていても、しっかりと反省して、可能な形で償い(贖罪)をして、現在立派な生き方をしているのであれば、「楽しい人生」を送ることは、「可」なのではないかと思いますね。ただ「罪」の程度にもよりますし、「楽しい人生」の程度にもよると思うので、実際には、ケース・バイ・ケースだと思いますが。
「私」(先生)は、贖罪に当たる行動をしていないとも取ることができると思います。反省はしても、行動をしていませんよね。(「自殺」以外では。)実際に罪の償いを実践していれば(贖罪にもいろいろな形があると思いますが)、それが他の人にとっての救いになったとか、苦しんでいる人を助けることができたとかいうことが起きて、一種の「罪を背負った自分の生きている意味」とかを実感することができたかもしれないと思います。
私はそう思いますね。
[7]砂屑 06/03/28 10:00 0nHapYze6W
>>5 こころさん。
 不謹慎なようですが,面白いといかけだと思いました。
 ぼくは,主人公が負ったとされる「罪」というのが,そもそも何なのか,じつはよくわからないところがあります。

 社会的な道徳違反でも,法に違反する場合と,法には抵触しなくても,道徳的に是非を問われれば非である場合とがありますね。

 明らかに法に触れる場合は,まあ,法に触れたから罪で,法に定められた罰を受ければいいと,割り切って考えることもできます。ほんとうは,罪の本質は,法違反ではないと思うし,法に定められた罰を受けて償えるというはなしでもないと思うけれど。

 道徳への違反は,なにを傷つけているのか。社会でしょうか。社会の絆,連帯性,共同性,そうしたものを傷つけた。社会にたいする罪。これを社会が罰して,損傷を受けた共同性なりなんなりを回復しようとする。

 もし主人公とKとの間の罪云々の話をこうした,社会学的とも言える文脈でみるならば,ただ社会的罰を受ければすむ話。

 社会に対してではなく,Kに対する罪。そんなものは,ありません。というのがぼくの意見です。主人公の行為と,Kの自殺とには,必然的な因果関係はないと思うから。要は,kの自殺は,Kの勝手であり,同様の出来事に際しても,自殺などせず,楽しく幸せに生きられる人間などいくらでもいる。Kの自殺は,Kの個人的な考え方の問題であって,Kの自殺はいわばKの罪ではないか。

 主人公の罪を,社会的なものと考えず,Kに対する罪でなどもないとするならば,あとは何に対する罪でしょうか。このとき,罪とは何なんでしょうか。

 もし「神」という言葉を使うならば神に対する罪,これは普遍的な存在の根拠と,普遍的な善の根拠と,そうした存在と倫理の根拠が一なるものとして想定されているような,そうした普遍的存在−倫理に対して,あえて選んで背を向けた,という罪かと思います。もし神という言葉を使わないなら,自分の魂(心)を傷つけた魂に対する罪。神という言葉を使っても使わなくても,ようは,傷つけたのは自分の魂(心)。

 もっとも,「自分の」というときの「自分」というのがじつはなんなのか,そもそもそんなものがあるのかないのかもわからないから,そのそもそも何なのかもあるかないのかもわからない「自分」という言葉をとっぱらえば,「魂(心)」を傷つけた,それが罪といわれるものの本体なのかなと思ったりします。

 しかしさらに,魂というのは傷つけることができるのか。魂を傷つけるとはどういうことか。

 魂って,在らしめるエネルギー,ではないかと思う。生かすエネルギーといってもいい。魂が抜けると,生気もなくなって,腐っちゃったり。あるいは人でもモノでも,魂を入れると,魂を込めると,生き生きとして在ることができる。ただ在らしめるのでも,生かすのでもなく,本来的に,より善く在らしめよう,より善く生かそうとするエネルギー。

 活殺自在なんて言葉があるけれど,一般に,生かすことのできる能力は,殺す能力をも兼ねる。その逆は成り立たないと思うけれど。人間において,より善く在らしめようより善く生かそうとするエネルギーである魂は,どこかに,殺そう,駄目にしようというマイナスの傾向も,多かれ少なかれもっている気がする。で,そのマイナスの傾向に気づいて,それを意識的にプラスに転化することで,善い方向へ,高まっていく。

 このマイナスの傾向への執らわれが,罪ではないか。もしそうならば,その執らわれから,みずからを解放すればいい。それだけで,楽しく生きられる。有りとし在るもの,生きとし生けるものの存在をより善くしよう,高めようという,本来的な傾向に素直にしたがって,絶え間なくマイナスに気づいてこれをプラスに転化しながら,すべての善を願って生きるなら,無私の楽しさや悦びが,いますぐにでも,味わえるのではないか。そう思いました。
[8]こころ 06/04/01 15:40 dJFNkQjGtF
ジーナさん、砂屑さん。意見を聞かせていただき本当にありがとうございます。
実は、現実の私に起こったある出来事がきっかけで、最近ずっとこの「こころ」の中のKと「私」について考えつめていたのです。
「罪」の在り方についても色々と考えました。現在「罪」と呼ばれるものは、人間の考える範囲のことであり、それも、多数決によって成り立っているものなのだから、本当の「罪」など存在しないのではないか。もし、今定められている様々な決まりごとなどに反対をする人の人数が、賛成をする人の人数を上回るようなことがあれば、その決まりごとに反したとしても、それは「罪」ではなくなる。そう思います。そして、今ある決まりごとの中に、すべての人が賛成をしているものなどないのだと思います。世に言う「正しい意見」とは、そう意見する人数が多いというだけであり、価値で考えれば「曲がった意見」と同じなのだと思います。
・・・こんなことを考えながら、私は「私」が救われる方法(逃げ道とも言えるでしょうか、)を必死で探していました。そしてお二人の意見を知り、ひどく納得しました。思い違いをしているのかもしれませんが、納得できたのだと思っています。自分の思う「罪」を認め、その上で良い方向へ事を考え、今自身にできることをするというのが、「私」を救うことのできる最良の手段なのだと私も思います。お二人の意見を聞いてそう思うことができるようになりました。とても感謝しています。
[9]南溟道人 06/04/01 18:09 bxNiUXnNsu
>>0
ここに来るより読んだ方が早いような気が…

>>6 ジーナさん
私の想像ですが、漱石は
一度罪を犯す=それ以降の局面は本来あり得なかった局面
(「先生」は「奥さん」と結婚しない筈だった)
→それ以降の生活、とりわけ生活の基礎となるべき配偶者を詐術で得て
築いたような生活は全て誤り・虚偽
のように考えたのではないでしょうか?

>>7 砂屑さん
私の意見だが
感性・頭脳の低い者が
高い者を行動力やごまかしで押しのけて生きていくことを
漱石は 罪 としたのではないでしょうか?
「それから」 では主人公の教育水準や感性のある程度高いことが
社会に適応する上で障害になっていました。
「行人」では(一般的な意味ではなく、作中で)
「兄」の感性・知性は高いが、それを他人に求めることは不可能であり
(背の高いものがかがむことはできても背の低い者が伸びることは不可能であるように)
「兄」が凡人に合わせるしかない、という趣旨であったと記憶しています。

[10]落ち武者 06/04/01 20:27 *GuyOcl4RyNJ*B/U2wezIqL
裁かれるような罪でないからこそ、罰がないからこそ、
何をするにも自分を肯定できないように自分で自分を追い詰める結果になってしまった。
と思う。

でもまぁ、最後の最後まで勝手な人だよな。
[11]ジーナ 06/04/01 22:26 *uPcoYmrjHTF*Jo5Ou8LmDE
>>8
どうしたしまして。
それなら良かったです!

>>9
そうですね。漱石がどう考えていたのかは奥の深い問題ですが、私の個人的な意見としては、もし「先生」がそれまでの生活が全て誤り・虚偽であると思ったのだとすれば、まずは「奥さん」にすべてを話す(本当はKを出し抜いて結婚を申し出たことやKの自殺の真相などを)ことから始めて、「新しい生活」を築いていくことに、一つの「救われる道」があったのではないかと思いますね。


[12]落ち武者 06/04/01 22:51 *GuyOcl4RyNJ*B/U2wezIqL
あり?「先生」って別の人じゃなかった?
主人公が手紙を宛てた人っちゅうか。
[13]南溟道人 06/04/02 14:55 lRKc1MF1nM
>>11 ジーナさん
>まずは「奥さん」にすべてを話す
漱石は士族だから、離婚につながるような告白は不可能という前提で
書いていたのではないでしょうか。

>>12 落ち武者さん
「先生」が、主人公に遺書を宛てた(その遺書が作のおよそ1/3を占める)
と記憶していますが…
[14]落ち武者 06/04/02 21:21 *GuyOcl4RyNJ*w80T5jWpnO
あ、すまん、俺の記憶違いやった。
[15]砂屑 06/04/11 15:36 pbualqGPSn
>>9 南溟道人さん。

 返事が10日以上も経ってからになってしまい,申し訳ありません。
 どう答えようか迷っているうちに,のばしのばしになりました。

 ぼくは,それほどじっくり夏目漱石の作品を読んだ覚えがないから,あまり自信をもってお答えできませんが

>>感性・頭脳の低い者が
高い者を行動力やごまかしで押しのけて生きていくことを
漱石は 罪 としたのではないでしょうか

 という解釈については,「そのとおり」とも「言われてみれば,なるほど,そうだったか」とも思えないのです。

 知性や感受性を,「近代的な」という形容詞付きで,しかも西洋近代的という意味でとらえて,そうした近代的な知性や感受性を備えてしまった人間が,前近代的な,あるいは「封建的な」考え,感受性の持ち主たちの共同体的な社会において,異端となり,異物となり,片隅へと排除されていく,ということならば,そんなことが描かれていたかもしれないと思います。しかし,それと「罪」や「罪悪感」がストレートに直結するといった読後感を覚えた記憶はありません。むしろ,近代的な知性や感受性を備えてしまった人間が,封建的な社会で生きつつ感じる,当人の罪悪感のほうが,問題とされていたような気さえしてくるのです。

 このスレッドは漱石の『こころ』がテーマですから,「罪」が取り上げられていますが,ぼくの乏しく貧しい漱石読書経験において,記憶に残っているのは,「罪」ではなく「愛」でした。それも,なんだかヨレヨレして,へたりそうで,履き古してボロボロに崩壊したパンツのように,いまにも崩れそうな愛。

 印象に残っているのは,たしか『門』という小説のなかで,崖のふもとのボロ屋で,息をひそめるようにして暮らす主人公たち男女の,それでも,夜明け前の薄明かりをも感じさせるような生活。社会のどんな栄達よりも,たしからしく思える将来よりも,崖におしつぶされそうであっても(日本の根強い封建的かつ共同体的な社会の重圧が崖にシンボライズされているかのよう),二人で生きることを選んだ。

 もうひとつは,『明暗』。このなかでも,主人公の大学教授は,教授としての,学内あるいは学会さらに世間での栄誉なんて,どうでもいいと思っている。それよりも,妻のことが気になる。主人公は神さまではないから,ほんとうの愛で妻を愛しているとは言えない。エゴイスティックで,執着じみていて,疑い深い,愛とはいえないような愛。それでも,教授の地位も将来も全部なくしてもいいくらいの気持ちで,ひとりの妻を信じたい,理解したいと願っている。

 こうした『門』や『明暗』の印象に基づいて,漱石のことを考えるとき,かれが知性の優等なものと劣ったもの,という対立軸でもって,テーマを考えたというようには,どうしても思えないんですよね。

 遅ればせの感想でした。
[16]南溟道人 06/04/12 16:05 tlm4eTPeZv
>>15 砂屑さん
たしかに、封建・近代の規範衝突もテーマですね。
最近はサービス残業や徒弟制度的な若年者低賃金があたりまえになっていて
漱石の時代よりある程度後退しているかも…

ただ、漱石が近代人として、また士族出身の知識人として
知性に恃む所はあったとも思います。
漱石自身はそれなりの社会的位置ではあっても
軍医総監の鴎外には及ばないし、狂人のように周囲からみられた時期もあったようですが
漢学・洋学を学び、そのいずれも社会の現実とは一致しない中で
社会的道徳 と、 近代的自我 の矛盾に悩み
またその矛盾を無視して成功する人の存在に悩んでいたのではないか?
と思います。
[17]砂屑 06/04/12 17:07 4UydnYfZoR
>>16 南溟道人さん。

 すると,有り体に言えば,漱石は自分の社会的地位に不満足であり,そのことで鬱々として心楽しまなかった,あるいは嫉妬や妬みがあって,それに苦しんだ,ということがあるのでしょうかね。それとも批判的というか避難的というか,そうした否定的な思いは,嫉妬や妬みのように外に向かわず,みずからに向かったのでしょうかね。

 ぼくは,まえにも掲示板のどこかで書いたかもしれませんが,いつも漱石のことを考えるとき,二葉亭四迷にたいする,漱石と鴎外のコミュニケーション観のちがいを思い出すんです。

 二葉亭四迷が若くして死んだとき,漱石と鴎外に,二葉亭の思い出について,取材が及んだらしい。そのときの,二人の思い出話の内容の違いが,二人の考えや性格を,凝縮的に照らし出しているように思われます。

 鴎外は,海外のどこだかからの帰りの船上で,二葉亭と,ほんのひととき,いっしょにお茶だか食事だかをとりながら,会話した思い出を語り,たとえほんの一時とはいえ,親しく語らいあえたことを,とても幸せだと思うと,そんなことを語ったそうです。

 一方の漱石は,二葉亭とは幾度か語らいあう機会があったこと,しかし,その対話は,お互いの内面深くをさらしあい,心深くで結ぼれあうようなものではなく,むしろ社交的なものであったこと,その点が残念だと,そんなことを語ったらしい。

 鴎外は,孤独だったと思う。その孤独は,明治人として,かなり高度に,西洋近代的な自我を確立してしまったことの代償であり,鴎外はその孤独を自覚的に受け入れた。漱石は違った。かれはもっと親密な,深く情の通い合った,のみならず,理知的にも理解し合うような,そんなユートピア的な家族的共同体のような関係性を,望んでいたのではないか。そして,望みつつも,本人は,それを構築することのできるような人間ではないものとして,自己を陶冶した。

 人はだれでも,もし心が無防備に開かれていたのでは,傷ついてしまうから,傷つかないように,「我(エゴ)」という鎧をつくってそれで武装防備する。それは洋の東西を問わないのではないか。しかしながら,その鎧のなかの「わたし」が,あまりに西洋的な意味での理性的な主体として,構築されるなら,きっと人間が原始的にもっている共感本能のような,わたしとあなたとが一体化して結ぼれあうような能力が疎外されて,鎧をはずしても,なおも心が開かれない状態に陥る。

 知識人としての漱石が,問題としたのは,同じように「我」でいっぱいながら,一方の知識人である漱石はなにやら孤独であり,他方,非知性的ないわば封建人のほうには,なぜだかつるむ仲間がいて,孤独を感じていないらしい,そんな事態についてだったのかもしれませんね。そんなことを,南溟道人さんの書き込みに返事を書きながら思いました。
[18]南溟道人 06/04/13 13:04 tlm4eTPeZv
>>17砂屑さん
>漱石は自分の社会的地位に不満足であり,そのことで鬱々として心楽しまなかった,あるいは嫉妬や妬みがあって,それに苦しんだ,ということ
これは鴎外にもあったと思います。
軍医総監(中将待遇=大将にはなれない地位)は高い地位ではあっても
不満は却って大きかったかもしれませんね。

>かれはもっと親密な,深く情の通い合った,のみならず,理知的にも理解し合うような,そんなユートピア的な家族的共同体のような関係性を,望んでいたのではないか
時期にもよるかもしれませんが「行人」や「それから」の主人公は孤独ですね。

>非知性的ないわば封建人のほうには,なぜだかつるむ仲間がいて
漱石の時代だけでなく、現在もそうだと思います。
戦後の共産党でさえ徳田球一が「家父長制」がどうとか言っていた国ですから…
[19]砂屑 06/04/13 16:35 4UydnYfZoR
>>18 南溟道人さん。(ひとこと返事をと思って書き始めたら,いつもの悪い癖で,ダラダラと牛のよだれのように長文になりました。無意味な文章に返事はいりませんし,斜め読みしておわりにしてくださってけっこうです)

 近代的な市民社会のないところで,近代人になろうとした人の孤独なんですかね。それとも,もっと根源的で普遍的な孤独なのかな。

 昔,新聞の投書欄か何か,あるいはどこぞの出版社が無料配布している冊子にでも載っていたのかもしれないけれど,ある未亡人からの投稿を思い出しました。

 ご主人が70何歳かで亡くなられたそうで,そのご主人は生前,夏目漱石の作品にえらく惹かれていたらしく,出版社が全集や作品集を出すたびに,買い集めていたそうです。それで,時間のあるときには,もっぱら漱石を読みふけり,退職してからは,以前にも増して,多くの時間を割いて,繰り返し繰り返し読み込んでいた。その未亡人は,ご主人が生きていたころには,漱石にまったく関心がわかなかったそうですが,亡くされた後になって,自分の夫が生前,どうしてあれほどまでに漱石に惹かれていたのか,何を考えて,どんな思いを抱えて読んでいたのか,急に知りたくなったのだとか。だから,少しずつ読んでみようと思いますと,そんな内容の投書でした。

 漱石は一時期坐禅を試して,じきに辞めてしまったでしょう。あれは諦めたのではなくて,見性悟道したくなかったのではないかなと,思っています。心に曇りがなくなって,生きるのが楽になってしまっては,小説などかけないですものね。見性悟道することよりも,苦しんだり寂しくなったりしながらでも,物書きとしてとどまって,追求したいテーマがあった。それは本人にとって,幸せなことなのか,不幸なことなのか,よくわからないし,外野がどうこう言うようなことではないけれど,多くの愛読者をえたかわりに,あんまり心底朗らかに微笑むことのできない生を送ったのは事実のようで,それでも,たった一枚だけ存在するといわれるかれの笑っている写真の笑顔は,胸を打つようないい表情をしていました。

 そういえば,文筆家の西部邁さんが,自分でもよく勉強したと回顧する30歳代から40歳代のころ,小説をあえて遠ざけて,社会科学や哲学関連の本ばかりを読みふけったらしい。小説の世界を禁じないことが,自分の精神にとって危険に感じて,ともすれば情の世界に流されて理論的思考に倦みそうな自分に,あらかじめ予防線を張ったのだとか。けれども,そうしたなかでもどうしても手放せずに書架にならんでいたのが,漱石全集とチェーホフ全集だったそうです。北海道のうらさびれた町で酔っぱらいながら,街灯の照らす道をひとり「星屑の町」でも口ずさみながらフラフラ帰るのが似合いそうな西部さんには,たしかに漱石もまた似合いそうに思えます。
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